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【ぼくの県展回顧録】 第27回 昭和48年(1973)高知県展              NO.3

外国物と闘犬と新二本立て  いずれも魚眼作品

 初めて、海外旅行を体験した年である。季節は2月、グァム島へいけるという。キタムラカメラの卸部から、金額の張る商品を仕入れ、3ヵ月間でノルマを達成すれば、というもの。で、やっとご招待の権利を獲得しての涙ぐましい外国旅行の実現であった。まだ1ヵ月に何十万も売上げのない頃だ。スタジオ用の2灯ストロボや、マミヤの中判は今後使う予定での無理な買い込み仕入れだ。更にフィルムや売れる見通しもたたないようなカメラなども大量に抱え込んだ。
 当時のぼくにとっては身の程知らずの決意であったが、このグァム旅行がぼくの新しい人生を拓いてくれたと言っても過言だと思わない。でも、まさか、一度が二度三度と、回を重ねて海外取材に出掛けるようになるなどとは夢にも思わぬものだから、取得したパスポートは1次旅券。やっぱり、若いときは器からはみ出すようなこともしてみるもんだ、と若者へ贈りたい教訓のひとつだ。
 そこでこの時の、入選作品はといえば、『アガニア大聖堂』。もちろんグァム島で伝家の宝刀、フィッシュアイを用いての作品だった。
 あれは熱帯の何という樹木だったろう、覆い茂って垂れ下がった枝葉を通して見た礼拝堂、ぼくのイメージでは「風と共に去りぬ」の中で、スカーレットが帰るあの大農場、タラに残る樹木と丘のうえの邸宅だった。
 また、グァムで撮った魚眼以外の作品の中には、ぼくの今日につながる人物の貌がある。レンズは85〜210ミリズーム、全長25センチ以上長くて重くてブレやすく、性悪の駄々っ子みたいな奴だが、ぼくにとっては、とても憎めぬ大切ないつかは良い写真を生み出してくれるだろう、と一目置いていたレンズだ。この旅で、信頼し使い続けたぼくの第二の目を開いてくれた。『チャモロ族』のいかつくそして内面の優しさがいま見られる黒っぽい顔アップは、翌年の「ぺンタックス年鑑」の一頁を飾ることになる。

 入選作品のもう一点は、闘犬の『立ち会い』。今、土佐山田町内の日曜市が立っている場所が、まだ空き地だったころだ。闘犬の幟がはためき「土佐山田場所」が開かれたことがある。生まれて初めての観戦で、ぼくには撮影の下心もあり、かぶりつきに陣取った。1mほどの水道管パイプと、木製の角材で囲った柵の内側が土俵になる。魚眼のついたカメラはパイプの透き間から差し入れられる。後で考えれば危険極まりない行為をしている。それだけに人とは異なった作品になり、評価も高いことがある。ワインダーやモータードライブなど高価で贅沢で買えなくて・・・・。激しい動きに負けまいと、巻き上げてはシャッターを素早く切る繰り返し、一瞬一瞬の切り撮りが勝負だ。

 タオルで首を押さえ込み、両者を見合わせて解き放つ一瞬。戦うものと飼い主、審判、観客、その土俵内外で繰り広げられるドラマの開幕だ。もうこのような闘犬場の姿も見られないし、こんな傑作も生まれては来ないだろう。

第27回 入選「立ち合い」土佐山田町 役場南 1973年

眩しいばかりの特選  6点みんな輝いて見えた

 この年の特選は、どの作品も眩しいばかりに輝いて見えた。少しは写真のことも分かってきたし、自分の位置がどの程度のところなのかも判断ができて、他の人の作品の内容をよく読むようになったからだろう。比較して、自分の非力を顧みつつも審査員が代われば、俺の出番はあるぞとの前向きの姿は、この頃から強まった。
 栗山福美氏の『穴内のみこし』。その後懐かしの県展にも展示されて、再会の機会があり感動したことだが、迫力ある波と舞い上がる神輿のセットもの。ハイスピードの波、スローシャッターによる投げ挙げる人物と神輿の動感、その相反するシャッターが今回理解できて、トリック作品であることが納得いった。
 依岡俊彦氏の『検診』。今考えてみれば、歯科医師さんが撮った一種の職場写真だった。その後この作品が載っているカメラ雑誌を羨望の目で見た思い出がある。
 故田辺寿男氏の『旅のアルバム』。旅先でのホテルで鏡に向かった自写像のベタ焼き。単純な手法でありながら、実に新鮮に感じ受け止めたものだ。今もぼくの評価は変わらない。一枚のベタ焼きでありながら、組写真のスタイルで見せた作品。審査員渡辺勉氏の更なる後押しがあり、第28回から組写真が解禁導入となる。
 本山準一氏の『山里』。山の斜面の上に牛が、枝を張った木のもとに人がいる。『羅漢寺』は技法に学ぶところがあった。
 故西岡富久美の『ステージ』。ほっぺの赤い童女がおすまししすぎて目を閉じて立っている。なんだかよそ行き風の赤い服もカラー表現にぴったり。全身像のストレート写真だが、童女の姿がこんなにも心を打つなんて考えてもみなかった。内面の描写の深さゆえだと今でもぼくの評価も変わることがない。
 この会期中に、確か大野数英さんから紹介を受けたように思う。西岡さんとのお付き合いはこの時期から始まり、新しいぼくの一面を拓いていただくことになる。そして高知県写真家協会の誕生、現美展への出品、光画会への参加、西岡さんに乗せられて大阪京都までも出掛けていったこともある。面倒見のいい人だった。

会員一人?

 まだ、クラブは誕生していない。ただ時々撮影に付き合ってくれた県庁務めの故田原武男さんが、『出漁』で入選を果たした。よくぼくの中古車に乗って南国の海辺や稲生の石灰工場に撮影に付き合ってくれた。そんな中の一点が実を結んだのだ。そして「クラブを創りや、結成しようじゃいか」の声に励まされ決起、新しいクラブの誕生を迎える。
 山田フォトクラブを持つ徳弘さんへ挨拶にいったところ、「やめちょきなさい、悪いことは言わん、持ち出しがよけで世話がやけるばぁじゃき。」と忠告とともに止められた、そんな思い出もなつかしい。
 もうそのときは陣営が固まっていたから、別に決意が鈍るわけでもなく、予定通り町内の中央公民館にまずは結集、というところまでは覚えている。
 岩崎フォトクラブの一本目の芽は田原さんからだったが、ニョキニョキと次に現れるたくさんの新芽はだれもが想像しなかったことなのだ。ぼくですら全く予測できない世界に一歩を踏み入れていた。