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【ぼくの県展回顧録】 第46回 平成4年(1992)高知県展                NO.22

『郷土文化会館』最後の県展

『郷土文化会館』ラストステージとなる今回の県展だ、フィナーレを飾りたい。好成績で全員の作品を展示してもらいたい。前期と後期に分かれ、各部門特別賞が加わり、写真は後期展示となった。
 審査員はいまや人気No.1の竹内敏信氏、我々がその選択眼に叶うかどうかだ。搬入者総数633人(女性119人、50代156人、60代165人)もさすが。搬入総数2047点(カラー1674点)過去2番目の多さだ。クラブからは24人、115点の搬入。


 ぼくはインドの人シリーズ『聖者の一食』。カジュラホの朝だった。門付けの聖者に出会った。しばらく一緒に歩いていると、とある家の前で食事をいただくことになる。老いて穏やかな食べっぷり、この人の生きざまを見るようで、だがぼくの想像を超えた世界に生きているのだろうとも思いながら撮らせていただいたものだ。刻み込まれた年齢で、忘れられない一人になっている。
褒状入賞は野村節子『雨宿り』。溝の中でびしょぬれの子猫が震えながら雨を凌いでいる。吉田公一『夏の終わり』。実をつけたひまわりが項垂れていた。セピア色だったかな?



第46回「聖者の一食」インド カジュラホ 1992年

入選作品は次の通り、
吉田浩子『手鞠の唄』。金沢あけみ『朝のトレーニング』。鍵山桂子『やまゆら』。大和広子『ジャンプ』。宮地幸『はいっちゃった』。明石正『早く終って!』。西内則明『朝霧の中』。高瀬宏『ジャンプ仲良し二人組』。岩崎定子『熱歌』。黒川和代『雪・深々』。黒岩正『おんぶ』。五百蔵速喜『パフォーマンス』。山村寿志子『光の中で』。黒川二三生『漁網』。山崎泰広『微笑』。搬出も素早く郷文最後の搬出


 同じ素材が目立つ「審査は『完成』、『技術』、『表現力』の3点を基準に行った同じ素材が多く目立つ。独自の発見をするように。カメラの目を通して初めて見えてくるものがある。そうなるためにはたくさん撮ることが大切である」(審査評)
県展特別賞に無鑑査の松村一位氏『山里』。他3点の特選は西村景介『雨情』、三宮健秀『祭りの夜』、桑名隆一郎『3才の頃』。いずれも心に深く刻み付けられた作品だった。


2月22日三木淳先生の訃報を聞く。

クラブ会報1992年3月号(No.151)から

“突然の死” 三木淳先生との出会いと別れ

 逝ってはならない大切な人が亡くなられた。
 22日昼過ぎ、「三木淳先生が亡くならはってな……」と、信じられない電話を入れてくれたのは、神戸の竹崎譲司さん(元日報連幹事)。こんな突然の死があっていいものだろうか。一瞬耳を疑った。
 先日の会報に書いたように、1月24日上京したぼくは、日本写真作家協会の新年会で先生と言葉を交わしている。昨日のことのように思い出す。フレームの購入のことで二言三言おしゃべりしただけだが、これが最後の会話になろうとは夢にも思わなかった。
 健康を害している様子もなく、いつものように、総会ではJPAの将来を熱っぽく語られた。急性心不全のためと報じられた。どうすることも出来なかったのだろうか。私は大きな拠り所を失ってしまった。
 亡くなる数時間前まで、三木先生とご一緒に仕事をされていた江成常夫氏は「亡くなられて、あらためてその偉大な存在だったことを、かけがえのない方だったことを痛感している」と電話述べられた。日本の写真界の大黒柱が本当に亡くなったのだ。
 行かなければ悔いを残す。行って三木先生とのお別れができれば私の心は休まる。「行こう」と決心、26日急遽上京、お通夜と告別式に参列した。
 はじめて降り立つ夕暮れの総武線信濃駅、坂を50m程下り案内されるまゝに千日谷会堂へと足を運ぶ。
 カメラを手にちょっと笑みをうかべて、私たちの方を見守っている先生の遺影の前に立った時、この偉大な人の死を実感しないわけにはいかなかった。
 そして私は、私なりの感懐を持って、遺影に「有難うございました」と、お礼を言わせてもらった。
堂内に響きわたる読経の中で、私は、三木先生との深いかかわりあいを思いおこした。まず1978年(S53年)にさかのぼる。5月の下旬、高知でニッコールの撮影会があり、その時はじめてニッコールクラブの会員である先生にお会いした。撮影会は、午前中は五台山で、午後は種崎へ移動した。当時としては、私のあまり使わないリバーサイドで撮った。海水で濡れた髪の「女」が準特選に選ばれた。
 24mmのレンズを副賞でいただいた。このレンズは真部君に渡り数々の傑作を生み出してニッコール誌やフォトコン誌を飾った。
 先生は、当時フォトコン誌の月例で白黒の部を審査されていた。おそらく撮影会で先生にお目にかかった印象から好感を持ってすぐさま応募したのだろう。8月号にニューカレドニアで撮った作品「若者」が、特選として選ばれ掲載された。
 「女」も「若者」も共に広角レンズでとらえたアップの写真だった。
 そして、次の出会いは、1982年(S57年)よみうり写真大賞・報道部門で2席をいただいた時のことだ。5枚組で「笑顔の中国」を応募した。「報道写真の三木淳」先生が、きっと選んでくれたに違いないと信じていた。
 表彰式では、ただ笑顔を見ただけで「グランプリを取らなきゃスターのなれない」などと思ったことを覚えていた。

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 1984年(S59年)第38回県展の審査に来られた。連続特選の夢実現に燃えていた頃のことで、クラブの者に「これでもらうぜ」と豪語したものゝ、まさか三木先生がトップに選んで下さるとは……。白鳥の湖のバレリーナの老人とタキシード姿に変身しようとする老婆の2枚組で、「男そして女」は脚光をあびた。「感じたことを素直に表現することだが、昔のようなピクチャーリズムでなく、社会性をもった写真をのぞむ。そのよい例として、今の世相を表現するちがった切り口を持った作品だ。」と評価して下さった。
 私の、県展応募史をひもとけば、はじめは夢中だったが、賞をねらうようになってからは、審査員に必死で立ち向かっていく青ざめた挑戦者になっていた。
 それが、この三木先生のときは、私が伝えたい心を写真で語ればいいと思い、肩肘はらずに先生に送るメッセージはこれだ、と、自然体で作品を生み出すことができた。きっと先生は私の作品に理解を示し、この作品を特選に選んで下さるだろうと、今度は先生の心を読めるようになった。気どりでも自負でもない。ただそう信じて「これでもらうぜ」と言えた。
 1987年(S62年)私の長男が、三木先生出身の慶応へ入学した。その入学式に出席のため上京した折り、ニコンサロンで丁度三木先生にお目にかかることができた。先生からは、「自分の最も身近なものを写真にして、上京するよう心がけてごらんなさい」と、中央で作品を発表する場合のアドバイスをいただいた。息子の頑張りに刺激され、私も、高知から全国区へと大きく飛躍したいと思っていた矢先だけに、先生の言葉は心に深く刻み込まれた。
 この時の出会いがなければ、その年のよみうり大賞グランプリ「この喜び・夢の花嫁姿」は生まれなかったかも知れない。
 車椅子の若い二人の結婚式を撮影するチャンスを、私に与えてくれたのは花婿の母親。撮った私は、世間へ伝えるフォトジャーナリストの使命感だけだ。三木先生は、「よくぞ撮った」と褒めて下さるだろうと、応募の段階でもうグランプリを予測してしまった。私の心を打ったものを、もっとも易しい表現で、ストレートに伝えた作品であったが、三木先生を初め審査員の皆さんから高い評価を得ることができた。車椅子の優しいカップルや、両家のお母さんを伴って、表彰式にのぞんだぼくたちを、先生はあたたかく迎えてくれた。先生の計らいでカメラを二人にプレゼントされた。
 先生の選評は私の作品に終始した。私は謝辞を述べる壇上から、三木先生がうなずく姿を感知していた。この時の記録を、友人浜口十四郎君がビデオに撮ってある。その一部を三木先生のご家族のもとに送る日が来たことを悲しく思う。
 そして一昨年、日本写真家協会の会員募集があった時、一刻も早く先生の元へ馳せ参じたく、三木会長に直接お願いし、推薦者になっていただいた。もちろん審査はパス、JPAの一員に加えてもらった。いつかまた先生に認めていただける作品を撮りたい。そんな個展がしたい。いつか上京した時先生の写真集を買って、サインをしていただこうなどと落ち着き澄ましていた。まだ72才、これから10年、いや20年でも生き続けて欲しかった。JPAの育っていく課程を、先生の傍らにいて逐一見つめて行きたいと、考えていただけに残念でならない。
 26日のお通夜の駆けつけた人が700名を越したと聞く。27日には早めに出かけ堂内に入り、葬儀にも参列することができたが、焼香をすませて外へ出て驚いた。別れを惜しむ会葬者の列が長蛇をなして、千日谷会堂の庭から坂道へと続いていた。おそらく2000名を超す告別式になった筈である。
 礼服のネクタイだけをはずし、銀座へ出て、富士フォトサロンで、三木先生の仕事場であった「日大芸術学部写真学科卒展」に、育っていく次代の若者たちの作品を見た。そして哀しい今日の日の記念に、永遠に先生のサインの入ることのない、三木淳写真集「LIFEのカメラアイ」を買って帰途についた。

1992年を振り返ってNo.159より

1992年を振り返って

NTTトークプラザで今年も残り後わずかになりました。それぞれ皆さんには、1年を過ごされたことと思います。クラブとしても、わたし個人としても、たくさんの収穫を得ることができました。では、そんな1年を振り返ってみます。まず第一に、8月と11月、延べ1ヶ月以上もの長期間、「インド」と「ネパール」の写真展が実現しました。年賀で決意表明した今年の目標だっただけに、念願かなって、よかったと思っています。6月の蜂須賀秀紀さんの「動物園と旅のスケッチ」写真展は、今までにない企画展となり、大成功をおさめました。1月の上京の際、日本写真企画でフォトコンの審査にあたっていた蜂須賀さんに企画を持ちかけたのが発端でした。準備までが大変でしたが、大反響を得たことで、プロデュースの醍醐味を味わうことができました。
 10月には、フォトコン誌のクラブ訪問で、森井禎紹さんの指導をうけました。これは主幹河野真進氏の好意によるもので、ありがたいことでした。全国に自慢できるほどのクラブではないけれど、こんな写真愛好家が底辺を支えているということを理解していただけたことと思います。いずれにしろ、間もなく発行の1月号が楽しみです。高知市と野市町で個展
大雪の秋葉祭りと泥んこの中のモトクロスは今年のベスト撮影でした。よさこい祭りや四万十川に、西に東に山に海にとその時々の記録が出ました。
 『郷土文化会館』最後の県展は、搬入一番乗りや多数の入選者を出して思い出を残せました。来年の県展は、いま建設中の新しい美術館で12月に開催されるということです。
 今年は幸運な当たり年だったと喜べるものもいれば、思惑どおりの結果が得られなくて心を曇らせたものもいるでしょう。でも、町の芸術祭や日報連の四国展などによる埋め合わせもありました。反省材料はみんながもっています。わがクラブのトータルでみると今年はとてもいい1年だったと思います。新しい仲間も増えたことだし、来る年への期待を込めて大きな夢を膨らませましょう。


上記蜂須賀秀紀氏の写真展、撮影会で景気づけした後、第1回のいち動物公園写真コンテストを催した。審査員には故宮内巌写真部長もいたことを思い出す。

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DMとリーフレット