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【ぼくの県展回顧録】 第45回 平成3年(1991)高知県展                NO.21

審査員は今年も野町和喜氏  写真部門女性2人目の特選が出る

 搬入者総数518人、出品総数1720点(カラー1358点)
 クラブ関係者は25人、127点の持ち込み。
 昨年に続いて審査員は野町和喜氏。昨年の厳しい審判が不安の影を落としても、めげることなく再挑戦するのがアマチュア写真愛好家の快さだ。やっぱり搬入一番乗りを決め込んで、郷文の表門で爽やかな朝を迎える。2日後の審査員の講評会には期待と不安半々で出席、みんな自分の作品が出てくるのを待つ。確認には夜半の刷り上がり朝刊を待つしかなく、市内で時間をつぶして、本町の高知新聞社裏口に集結というわけだ。そんな例年の習慣を崩すことなく、新聞を購入、発表された結果は、褒状入賞が3名になっていた。
野村節子『潮騒』。金沢あけみ『修行』。黒川二三生『静閑』。
以下入選作品
岩崎定子『記念写真』。宮地幸『アーンして』。山崎静香『ひと夏の経験』。吉田公一『野だて』。小林幸司『土佐ッ娘の血が騒ぐ』。山村寿志子『朝まだき』。山崎泰広『願いを込めて』。毛利弘人『光景』。黒川和代『春の伊吹』。美馬教人『かぜ』。写団あじさいと合同例会
 展示会場の模様が初日の夕刊に載っている。見ると見事にカラー写真ばかりのコーナーになっている。特選作品も昨年同様カラーが2点入っていた。
 モノクロ党かと思いきや、堂々とカラーで津野広幸氏『ジャングルジム』。鮮やかな色調で心象風景をものにしていた。
 女性で2人目の特選は山本峯子『きょうだい』。トルファンの砂漠にある岩山を背景に、子供たち3人を自然に写し込んだ作品。


 ぼくの出品作品は『聖水に酔う』。昨年インドの撮影旅行の際、帰りに立ち寄ったカルカッタで間近にした姿である。沐浴シーンはベナレスのガンガ流域ばかりではなく至るところで見かける。池のほとりで身を清めていたこの姿から凄まじさのような雰囲気が漂っていた。

     第45回「聖水に酔う(カルカッタ)」インド 1991年

 高知県下市町村・国保連合会の依頼により、その機関誌の表紙を担当することになった。4シーズンとはいえ、季節は追いかけるように巡ってくる。生活、行事、自然、発行日と、余りかけ離れることのないものを少なくとも2つ程準備する。気遣いもしたが、そのための視点で好い仕事をさせていただいた。

写真家 林 忠彦

クラブ会報より(1991年2月号No.140)
 ドキュメンタリー’91「写真家・林忠彦・命を焼きつけた105枚」
これは1月30日、NHKテレビ放映のタイトルである。
更に「ガンとの格闘・車椅子で写した遺作・東海道」と続く。感動を呼ぶ内容のものだった。
 林忠彦氏は、いつか会える日があるにちがいないと思っていたカメラマンの一人であった。ぼくの県展初出品(1971年第25回)褒状という輝けるスタートを切らせてくれた審査員だからだ。大学時代読みあさった太宰治の、あのバーの椅子に片ひざ立てて座りこんだ、余りにもポピュラーな写真の作者だということはその後に知った。ぼくの好きな人物写真を撮る作家の一人になる。
 しかし、昨年12月18日に帰らぬ人となった。「………ベッドで呻吟しているうちに、もし動けるようになったら、死ぬまでにもう一つ残したいという思いが、ふつふつと湧いてきた。(中略)………締切りとは違うものと切羽詰まった、せかされる感じがしている。………」と日本カメラ1989年1月号『東海道』を、日本橋を振り出しに連載をはじめた時書いている。自らの生命の限界を見すえながら撮りつづけ、最終回を京都の顔見世(7月号)で締めくくっている。
 『東海道』の出版を見とどけての逝去である。すごいプロ根性だ。でも、病院の廊下での車椅子の姿は痛々しかった。
 カメラを覗き、かろうじて使える左手でシャッターを握りしめている林忠彦氏の姿にこそ、カメラマンの真骨頂があり心をうたれた。

高知空襲の思い出

小学一年の時 防空頭巾をかけて クラブ会報より(1991年7月号No.146)
過ぎ去った日々に加速を与えているのは年齢だろうか。それとも仕事の忙しさだろうか。振り返ってもこの半年がどこへ消えちまったか、目をこらしても見えない。思いだそうとしてもほとんどの記憶がない。ということは、もちろん、目欲しい収穫がなければ、雲仙岳のような成長の跡もないということだ。
 だが確実に馬齢は重ねている。その証というか体重は73kgにもなり、腹周りの肉(脂肪か)が、ぶ厚さを増してきた。2、3年前のズボンを使用不可能にする体形に作りあげてきている。しゃがんだり、うつむいたり。すこしすると胸を圧迫し、呼吸があがってしまうという情けなさだ。万事ままよよとばかり、流れに余り逆らわず生きてきたので、自己管理が出来ていない。今更どうにかならぬか思ってみても、ドウにもならないなんてシャレにもならぬ。
 今7月4日、雨降る夕暮れ時。母に抱かれたぼく 三才頃か(左はし)桂浜で
 46年前の今朝、高知市は大空襲に見舞われた。
小学校一年生だったぼくは、田淵町(サエンバ)で、焼夷弾の雨をひとり見上げていた。空襲警報発令とともに飛び出して行った父、弟を背にして田畑の多い比島方面へ逃げだした母、警報が鳴るといつもぼくはひとりになった。家の前で、降ってくる火の粉を浴びながら立ち尽くしていた。日常の訓練や空襲体験で、恐怖心が薄らいでいた。
 ぼくの頭の中に残る次のシーンは、昭和小学校への通学路の途中にあった防空壕の中に、今の知寄町付近の百姓さんたちと、いっしょに入っている自分の姿だ。
 誰かに手を引かれてともちがう、寝坊だったから夢遊病者のように、ひとりでたどりついたものだろう。
 経過した時間はわからない。無事生き残れて、壕の中にいたぼくを探しだしてくれた父が、狭い入り口の向こうで、「イサムよ、ここにおったか」と声をかけてくれた時、涙がドッとあふれ出たことを、46年も前のことのようには思わない。
 あの日の父の年齢に、今、丁度ぼくも達している。