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【ぼくの県展回顧録】 第51回 平成9年(1997)高知県展                NO.27

教え子 真理子と二人展
『スリランカペラヘラ祭り 写心旅』 『ファッションパタンナーへの道』

真理子の卒業作品と大学の教え子と一緒に作品展ができる日があるなんて想像も及びつかなかった。2回生の時、写真の授業を選んで来てくれたのが縁で、卒業を機にスリランカの取材旅行に着いて来た。上京後の文化服装学院では素晴らしい成績を修め、パタンナーとしてイッセイミヤケに入社した。
 野市図書館の会場では、服装学院での成果を彼女なりに展示展開、ぼくはその若い才能のひらめき、発想の豊かさやユニークさ、非凡な感性に触れ見守るだけで楽しませてもらうことができた。


 第7回佐川芸術賞展の審査を依頼された。トップに10万円もの賞金が付く責任大の審査だ。「人間の姿や表情などを通して、今の時代が見える作品。ネイチャーは、光や影、色彩が織りなす瞬間の美しさをどれだけ計算して表現できたか」を審査基準ベースにして、じっくり選考させてもらった。
 高知県写真家協会の会長に担ぎだされて、土佐展を再出発させる。初代会長西岡冨久美氏の死去で頓挫して久しく、改めての復活には感慨があり、生き残りが頑張りで、6月に中央公民館に展示開催の運びとなった。

岩崎フォトクラブで二人目の女性特選

 竹内敏信氏が再び審査員で来られた。
搬入者総数622人(女性155人、50代153人、60代186人)、 作品総数1992点(モノクロ256点)
クラブ関係21人、97点、
 特選は山崎静香『湖上の送り火』物部村のお盆行事、湖水祭りで、灯籠を流し始めて間もない時間,黄昏の濃くなったカラーにもってこいの瞬間だったようだ。「写真の持つ力を十分に引き出した,味わい深い作品だ。作者は静かに風景を見つめて,静かに語る。見ていて飽きない。」(審査評)
褒状入賞、
野村節子『時化の日』。「画面が整理されていて,作者は見せ方を知っている。」
武内忠昭『潮騒』。「少女と海と月。口で言い表しがたいポエムがある。写真で表現したのは見事だ。見る人は、少女の中にどんな気持ちが広がっているかを読み取ろうとする。」(審査評)
以下入選作品、
土居田鶴「石垣の造形」。高瀬宏「ジャンプ・ジャンプ・ジャンプ」。西内則明「桜下の五人衆」。宮地幸「小さな歌声」。明石正「光景」。川村邦夫「バク転マン」。金沢あけみ「ボス」。黒川和代「厳寒」。黒川二三生「絆」。五百蔵速喜「祭りの子」。前田鈴「時の流れ」。黒岩正「泥ンコダッシュ」。
 ぼくの作品は『心をひとつに(能「吉野夫人」より)』。
 県立美術館の能楽堂での公演に際し、前日のリハーサルで楽屋裏での撮影を依頼されて、この作品に至ったもの。舞台での悠揚な時間の流れとは裏腹に、ここでは何人もの手が加わり、素早くでも確実に仕上げにかかっていく。ファインダーを覗いたまま、摺り足でカメラ位置を移し、わずかにアングルも変えてみる。タイトルの一瞬を掴み取れる勘が冴えているかどうかがスナップの妙技といったところだろうか。

第51回『心をひとつに(能「吉野夫人」より)』県立美術館ホール 1997年
「象使い」スリランカ  第8回日本写真作家協会展出品

県展後の慰労会
 タイトルに作者の姿勢『パンチのある高知らしさが薄らいだ。芋っぽさがなくなって、真面目になり普通になった。タイトルは表現の意図を示す、作者の意思を込めている筈だ。テーマ性やタイトルは作者の追求の姿勢だ。それが弱いと、写った素材は面白くても、作者の心が伝わらないことがある』(審査総評)。
 特選2点目には桑名源氏『仁淀川雨情』思い入れたっぷりな、雨の日の情感が伝わる美しい作品だった。もう1点は大崎愛子氏『フェイス』アシカののんびりした顔のアップとの対話が楽しめる作品だった。


クラブ会報 12月218号より

生と死と 沢田教一(カメラマン)と石丸寛(指揮者)

 先日、久しぶりに感動の映画に出会った。五十嵐匠監督作品の「サワダ」。銃弾で散ったフォトジャーナリスト沢田教一の過去の軌跡をたどるドキュメンタリー映画だ。彼が交流をもった人たちを追って、その証言を綴り合わせていく。「人は何のために生きるのか、戦争とは何か、人間とは?」と、考えさせもするし、見る者までも追い詰めて行く。
 ベトナム戦争の最中、戦火を潜り抜けて、必死で川を渡って来た親子の姿を捉えたピュリッツァー賞受賞作品「安全への逃避」はあまりにも有名だ。撮影後、彼はすぐ手を差し伸べ、子供たちを川岸へと引き上げ、その後無事の確認をし、戦争の終わった後も、何度か彼らを訪れ写真を届け、子供たちの成長記録も撮り続けていたという。
 しかし平和が訪れると、彼のヒューマンアイは戦場へと向けられる。世界報道写真展でもグランプリに輝き、報道写真界の頂点を極めた沢田教一の残された活路は、死の待つ最前線しかなかった。フォトジャーナリストとして生きんがためには、死を選ぶしかない。そんな終章を迎える彼の生きざまを、プロの生き方(死に方)だと共感を覚えた。
 1960年代ぼくもTV映画の撮影助手の頃、沢田教一のようにベトナム勧誘を受けた。体に自信がなく、生と死を分ける選択に答えは早かった。


 衛生第2で、指揮者石丸寛の「私は奏で続ける」を見る。大腸ガンの手術を受けた後、2年が経つ。今、肺そのほかに転移しており、病を押して指揮棒を振るその生への執着は壮絶そのものだ。来年の2月まで、ブラームスの最後のシンフォニーを奏で続けるという。
 映像は彼の現状を追う。椅子に座って指揮棒を降る、肺機能も弱っているので度々激しい咳が襲いかかる、演奏はとたんにストップだ、薬を飲む手が震えている、リハーサルもままならぬ姿に胸が痛む。
 ガン抑制剤は、本番10日前から使用しない、副作用で指揮が出来なくなってはの配慮だ。万が一の代行指揮者も用意された。アクシデントのない40分が続くだろうか。
 本番の日、背もたれのついたコンダクターボックスに立つ石丸寛。椅子はない、命がけの指揮が始まる。発作が起こったらどうなるのか。胸の前に思わず握り締めるこぶし。第2楽章、リハーサルで言っていた「『天国の章』をください」の言葉が思い浮かぶ。往年の面影も薄らぎ骨張った顔に、優しい微笑みが拡がる、まなざしが穏やかになる。
 ふつふつとたぎる感動の熱いものを押さえることが出来なくなる。
 大きな喝采の中を、1歩1歩、また一歩、確かな足取りで奥さんの待つ袖に向かう。差し出す特製のドリンクをゆっくり一口含むと、鳴り止まぬ拍手、カーテンコールの舞台へと再び歩きだす。「限られた命」を感じさせない勇姿を見る。
 沢田教一と石丸寛、「死」を享受した上での「永遠の生命」を生きた、また生きる二人に、ぼくは心打たれた。

記 ’97.11.20